日本ワインブームの歩みを体現する『ヴィラデスト ガーデンファーム アンド ワイナリー』

長野県はワインの振興策として「信州ワインバレー」構想を掲げている。カリフォルニア州のナパバレーのように、良質なワイン産地を「バレー」と呼称しブランド化しているのだ。県内に4つあるバレーの内、ワイナリーの数が多く気軽にワイン観光できるのが、「千曲川ワインバレー」。
その顔とも言えるのが、「ヴィラデスト ガーデンファーム アンド ワイナリー」(以下「ヴィラデスト」)と兄弟会社の「アルカンヴィーニュ」だ。

この二つのワイナリーには、二人の「父」がいる。「日本ワインの父」と呼ばれる麻井宇介さんと「千曲川ワインバレー」の仕掛け人でエッセイストの玉村豊男さんだ。
「ヴィラデスト」の代表取締役で「アルカンヴィーニュ」の取締役でもある小西 超(こにしとおる)さんは、二人の「父」との出会いを次のように語る。


ここでは「ヴィラデスト」について紹介しますが、「アルカンヴィーニュ」の記事も併せてお読み頂くことで全体像が明確になると思います。

『「ヴィラデスト」を育てた二人の「父」』

「すべての始まりは1997年〜98年の赤ワインブームでした。この動きを見た某大手酒造メーカーがワイナリーをつくってワイン産業に参戦しようとしたんです。当時私は同社に入社して3年目でした。会社から『ぶどう作りやワイン造りのことを勉強しろ』と指示を受けて、現在は閉鎖してしまった『酒生活文化研究所』の顧問を務めていた麻井先生に指導していただくことになったんです。その流れで玉村の持つ畑に派遣されました」。

玉村さんは東京生まれの東京育ち。大学時代にフランスに留学して仏文学を学び、帰国後はエッセイストとして活躍した。テーマは料理や旅行が中心で、ワインや農業に関することも書いている。

当時の玉村さんは某大手酒造メーカーで「酒生活文化研究所」の所長をしながら、エッセイスト、画家としての活動を行い、時には講演活動するなどしていた。

「玉村は40歳になる手前くらいに軽井沢に越してきたんですね。軽井沢で暮らす内に農業に興味を覚え、『軽井沢よりも広くて眺めの良い場所で農業をしたい』と考えて夫婦で1991年に同じ県内の東御(とうみ)市に移り住んできたんです」(小西さん)

その頃の東御には荒れてしまった農地がたくさんあった。いわゆる荒廃農地だが、眺望は抜群である。玉村さんはこの景色に惚れ込んだのだ。移住後は野菜やハーブなどさまざまなものを植えたが、その内の一つがワイン用ぶどうだった。玉村さんは若い頃フランスに留学していた関係で、ワインを愛飲していた。
そこで自分で育てて自分で飲むワインを造りたいと思ったわけだ。品種はシャルドネとメルローとピノ・ノワール。東御には現在ワイナリーが11軒あるが、最初にワイン用ぶどうを植えたのは玉村さんだ。

玉村さんは小諸市にあるマンズワインの媒体にエッセイを書く仕事をしていた関係で、特別に自分の所で採れたぶどうを醸造してもらっていた。しかし某大手酒造メーカーの研修でマンズワインの醸造施設を借りるわけにはいかない。麻井さんの伝手(つて)で北信(飯綱町)の「サンクゼール」で委託醸造させてもらう形となった。

小西さんはワインに関してまったくの初心者で、最初は麻井さんのことも知らなかったそうだ。

麻井さんは日本のワイン業界に大きな足跡を残した伝説的な醸造家だ。自身の出身であるメルシャンを大切にすることはもちろん、山梨県ワイン酒造組合会長を引き受けるなどして業界をリードした。
その生涯は河合香織さんの著書『ウスケボーイズ 日本ワインの革命児たち』(2009年「小学館ノンフィクション大賞」受賞作)としてまとめられ、映画化もされている。小西さんはそんな大御所の最後の弟子となった。

『逆境からの「ヴィラデスト」立ち上げ』

その当時の日本ワインは現在のようには評価が高くなかった。「薄くてあまり美味しくない」などと言う者もいた。そもそも日本の気候でぶどうを育てるのは簡単ではない。乾燥した西アジアが原産の果実なので、乾燥しているところに向いているのだ。日本のように雨の多い場所で栽培すると、病気になりやすい。

「しかし麻井先生は『日本でもちゃんとぶどうから取り組んで、きちんと技術を学んでいけば必ず世界に通用するようなワインができる』と言い続けていたんです。私はそれに影響を受けてやる気になっていました」と小西さんは語った。

ここで事態は急変する。赤ワインブームの終焉や業績不振のあおりを受け、ワイナリーの話が白紙になったのだ。2001年のことだった。数年間にわたる準備が水泡に帰した。さらにその直後、麻井さんが病に倒れ他界した。小西さんと玉村さんのショックは想像に難くない。

そんな状態の中、後に残された両名はワイナリーの立ち上げを決意する。「ヴィラデスト」の稼働開始は2003年だった。

現在のように小規模ワイナリーがポピュラーな時代ではない。資金調達やワイン醸造免許取得、多岐にわたる書類申請などの労苦は、今以上に多かったに違いない。その奮闘は2008年に「ヴィニュロンズリザーブ シャルドネ 2007」の「国産ワインコンクール 金賞 および 欧州系白ワイン最優秀カテゴリー賞」受賞、そして洞爺湖サミットにおけるワーキングランチでの「ヴィニュロンズリザーブ シャルドネ 2005」提供という形で報われることになる。
小西さんたちの「ヴィラデスト」は、ワイン業界での地歩を固めたのだ。

『牡蠣殻を入れて土壌づくりをした日々』

玉村さんがぶどうを植えたのは1992年だった。就農してもすぐにぶどうを植えることはできない。まずは土作りである。

最初にやったのは牡蠣殻を入れることだった。東御は浅間山から近いため、火山灰の影響を受けた土壌が広がっている。
だからどうしてもpH が低い酸性土壌である。これでは植物は育ちにくい。そこで酸度調整のため、東北からトラックで牡蠣殻を届けてもらい畑に撒いたという。

しかし牡蠣殻を定期的に入手するのは困難だったため、2004年ごろからは牡蠣殻を焼いた灰やぶどうの絞りかすなどを畑に入れた。ぶどうは少し痩せているくらいの土地を好むため、牛糞などの有機肥料の投入はほどほどにしながら土壌を整えていった。

肝心のぶどうだが、玉村さんが取り組んだのは垣根栽培だった。この当時は北海道や長野県のほんの一部でしか行われておらず、つまり情報がほとんどなかった。そこで必然的にニュージーランドやオーストラリア、フランス、イタリアなどへ視察に行き、現地の様子を学んでそれを自分たちの畑で実践した。
気候風土が異なるので、右から左へそのまま真似できるわけではない。創意工夫も必要だった。

もちろん国内で生育している生食用のぶどうとの共通点も多い。そこから学ぶこともたくさんあった。
「常に勉強を続けることが大事です」と小西さんは語る。

『クール・クライメットと終わりなき品種探索』

玉村さんの畑が源流の「ヴィラデスト」は、原料となるワイン用ぶどうの8割を自社圃場(ほじょう:農産物を育てる場所。田、畑、果樹園、牧草地、放牧地のいずれにも使える言葉)で育てている。

前述の通り玉村さんが最初に植えたのが、シャルドネとメルローとピノ・ノワール。この3種は玉村さんと仕事の付き合いがあったマンズワインさんからのアドバイスで、特にピノ・ノワールは「難しいだろうけど、試しにちょっと植えてみたらどうですか」という感じだったという。

そこがスタートなので、必然的にシャルドネとメルローが中心になる。シャルドネとメルローは適応性に富み日本全国で広く作られているので、そこそこ良いものができる。

しかし堅実なだけでは面白くない。ここで新しい品種を考えたとき、小西さんの脳裏に「クール・クライメット」という言葉が思い浮かんだ。「涼しい地域で造られたワイン」という意味だが、世界的に大分前から一大潮流になっている。
ヴィラデストの場所も標高が高くて850メートルあり、クール・クライメットの条件を満たしている。そんな場所に合う品種ということで、ソーヴィニヨン・ブランとピノ・ノワールに行き当たった。どちらも当時の日本ではまだあまり見かけない品種である。

このふたつの品種に着目したのは2002年にニュージーランドのマルボロに研修に訪れたことがきっかけだった。ニュージーランドはぶどう栽培の歴史が浅く、1990年代に入ってから急速にワイン造りが発展した土地である。
同国は冷涼な気候でソーヴィニヨン・ブランとピノ・ノワールを中心に栽培していた。それを真似たのである。

そしてあとからピノ・グリとゲヴュルツトラミネールというやはり冷涼な気候に強い品種を取り入れていった。

「この地区はもう少し標高が低ければ、カベルネ・ソーヴィニヨンやカベルネ・フランも育てられるんです。現にマンズワインさんの「東山カベルネ・ソーヴィニヨン」という、日本を代表するカベルネ・ソーヴィニヨンがあるんですけど、標高500〜600メートルくらいの所で育てています」。

品種の選択は非常に難しい。現在の選択は間違ってはいないが、必ずしも正解とは限らない。世界にはまだまだ色々な品種があるからだ。しかし日本では入手困難なものも多い。

さらに、特定の品種を挿し木などで株分けしたクローンと呼ばれるぶどうの樹の問題がある。本来は同一種であってもそれぞれの樹ごとに個性があり、育ち方や実のつけ方、収穫の時期などが異なるのだが、同じ親から枝を採取することで畑のぶどうを均質にすることが可能となる。
これがクローンを使ったときの利点だ。たとえばピノ・ノワールには50種類以上のクローンがあり、それぞれが固有の特徴を持っている。しかし日本国内には優秀なクローンのバリエーションが少なく、さらにクローンの素性がはっきりしている苗木がほとんど流通していないのだ。

また苗木の段階でウイルスに罹患している樹も多い。日本ワインをもう一段レベルアップさせるためには、ぶどうの樹自体が良くなければならない。そのためにも苗やクローンを仕入れる間口は拡げておきたい。

そこで「一般社団法人日本ワインブドウ栽培協会(https://jvine.or.jp/)」が設立された。上田にある信州大学繊維学部や全国のワイナリーと協力して海外から新しい品種を輸入し、選択の幅を増やそうとしている。小西さんはこの協会の理事メンバーの一員だ。

なぜこうした活動が必要かといえば、検疫の仕組みが関係している。海外からの苗木の持ち込みには、なんと1年もの時間を要するという。
なぜなら「植物防疫所」の隔離圃場で1年間栽培して外来種の昆虫や病原菌などの有無を調べ、検査をパスしてようやく検疫を通過できるからだ。
費用自体は国が負担してくれるものの、検疫所の圃場自体が少ないため、1社あたり年間で50〜60本程度しか輸入できない。狭き門なのだ。

そこで「日本ワインブドウ栽培協会」と信州大学繊維学部が共同で、国から許可を受けた民間初の隔離検疫所を去年(2020年)から稼働させている。昨年は初年度ということもあり20本からのスタートとなったが、隔離検疫所の圃場では約300本が栽培できるそうだ。

『不確定な畑仕事がワイン造りの8割を占める』

「ワイン造りは、醸造よりも畑での苦労の方が多いんです。醸造自体はある程度コントロールできることなので、不確定要素があまりないんですよね。
それに対してぶどうの方はその時々の天候に左右されます。寒暖はもちろん、急に雹(ひょう)が降ったり、長雨に祟られたり、逆に雨が全然降らなかったり。特に雹は気が抜けないというか。毎年どうなるかまったく読めないんですよね」(小西さん)

ワイン造りの8割は畑仕事である。小規模なワイナリーで行われている伝統的な製法では、ぶどう栽培とワイン醸造を同じメンバーで行う。小西さんたちも原則として5人のメンバーで全工程を廻している。12ヘクタールもある広大な畑をたった5人で管理するのは、しんどい仕事に違いない。
特に緑が萌える6月〜8月はぶどうのみならず、雑草もぐんぐん成長する。伸びた雑草を刈り込み、ぶどうの風通しや日当たりを良くしたりという作業をしてあげなければならない。最低限の農薬散布も必要である。

適した時期に適した作業をすることが大事だが、12ヘクタールの畑で継続するのは困難だ。計画を立て、しかし天気によっても左右されるので天気予報を睨みながらやっていく。自然のサイクルに合わせて人間が対応していくほかはない。

「『ワイン造りはぶどう作り』と言いますが、まずは良いぶどうを育て長所をしっかりと引き出すことです。逆に言えば失敗しないということが、一番大事かなと思っています」(小西さん)
畑での作業は不確定要素が大きいが、醸造の方は良いぶどうさえ揃えばまず失敗することはないという。

もちろんここに来るまでは簡単ではなかった。様々なところで勉強し、海外へも出かけていって経験を積んだ。人一倍試行錯誤を凝らしてきた。だからちゃんとやりさえすれば、おかしなことにはならないだけの自信はある。

しかしワインは嗜好品である。「歌は世につれ世は歌につれ」ではないが、ワインの潮流は時勢に左右される。売れ筋が変化していくのだ。時代による変化を敏感に捉え、アレンジを加えてでも取り入れていかないと時代遅れになってしまう。
「例えばから20年くらい前だと、しっかりした味わいのワインが流行っていたんです。カリフォルニアとかオーストラリアの強いワイン。色も味も濃くて樽の香りも強いという、いわゆる厚化粧したワインが人気でした」(小西さん) 

かつては日本の生産者もカリフォルニアのようなワインを目指していた。「世界に追いつくにはそうしなければならない」と言われていた。

しかし世界は変わっている。今好まれているのはエレガントで果実感が感じられる優しいワイン。薄化粧のワインが支持されているのだ。
この傾向は料理でも見て取れる。かつてはこってりしていたフランス料理も、油やバターをあまり使わないヘルシーなものが多くなってきた。日本ワインは元々繊細で優しいタイプだった。現在の世界的なトレンドとドンピシャリである。

いわば日本ワインにとっていまはチャンスだが、小西さんは「僕は流行を追いたくないタイプ。同じスタイルで行くのを基本としています。ただし頑なに自分たちのスタイルを崩さないという訳ではないんです。アレンジも必要なんですよね」と語る。

『東御の眺望を液体に凝縮した特別なワイン』

目指すワイン像について尋ねると、小西さんはこんな風に返答した。
「喩えて言うならば、『ヴィラデスト』の丘から見える美しい景色が目に浮かぶようなワインですね。雑味がなくてクリーンでエレガントで、それでいて凝縮感、果実感がしっかり感じられるのが理想です」

玉村さんが誘い込まれた東御の眺望。信州の蒼い山並みを背景に、眼前いっぱいに広がるぶどう並木の緑。この風光を液体に落とし込んだのが、小西さんたちのワインということなのだろう。

「『自分たちが住む長野県のワインだ』と思って飲むのも良いですし、旅行者が長野の思い出に飲んだり、お土産に持ち帰ってから頂くのも素敵だと思います。いずれにしても長野の東御という場所を連想しながら飲んでいただければ」(小西さん)

そんな「ヴィラデスト」のワインは、お祝い事やパーティーなど特別な席で飲むための1本だという。あるいは大切な人への贈り物にするワイン。
「世界に通じるプレミアムワイン」というのがコンセプトだ。玉村さんがワインの世界に飛び込んで約30年。小西さんは約25年になる。思えば随分遠くへ来たものだ。

「日本ワインの父」と言われるような人物からマンツーマンで手ほどきを受けた経験は、小西さんにとって貴重な財産となった。そして玉村さんがいなければ「ヴィラデスト」はできなかった。
その後の「千曲川ワインバレー」や「信州ワインバレー」の盛り上がりも玉村さん抜きには語れない。そういう意味で「ヴィラデスト」は「千曲川ワインバレー」のみならず、日本ワインの歴史を体現する存在と言えそうである。

基本情報

名称ヴィラデスト ガーデンファーム アンド ワイナリー
所在地〒389-0505 
長野県東御市和6027
アクセス【電車】
しなの鉄道「田中駅」または「大屋駅」下車。タクシーで10分。
【車】
○東部湯ノ丸インターからインターを出た最初の信号を左折。最初の交差点を左折(県道4号線に入る)。3km直進し「田沢」信号を右折。約500m先にある看板を目印にしてください。
○長野方面から国道18号線から上田バイパス経由、県道79号線(浅間サンライン)に入り「下大川」信号を左折。3㎞直進すると「田沢」の信号があります。そこを直進してください。約500m先の看板を目印にしてください。
○軽井沢方面から国道18号線から県道79号線(浅間サンライン)に入り、上田方向に直進。「鞍掛」信号を右折(県道4号線に入る)。3km直進し「田沢」信号を右折。約500m先にある看板を目印にしてください。
HPhttps://www.villadest.com/

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