『Natan葡萄酒醸造所』ソムリエから一念発起、日常に溶け込むワイン造りを目指す女性ワイナリー

徳島県三好市にある「Natan葡萄酒醸造所」は、井下奈未香さんが運営するワイナリーだ。奈良県でソムリエとしてワインバーを営んでいた井下さん。

ワインのことをもっと知りたいと考え、ワイン醸造への道を選択する。現在の夫と出会って徳島県へ移り住み、ワイン造りをスタート。
2021年から自社のワイナリーで醸造を行い、日常に溶け込むようなワインを目指している。

『バーで出会った赤ワインに衝撃を受け、就職する』

井下奈未香さんとワインとの出会いは、とあるワインバーでのこと。
当時は奈良県に住んでいて、シングルマザーになったばかりだった。就職先を探していることを、ワインバーで友人に相談していた。

「当時はワインについての知識は、まったくなかったんです。赤と白、シュワシュワしたのがあることを知っている程度でした」。
だが、そのときに飲んだ赤ワインのあまりの美味しさに衝撃を受けたのだという。

ちょうど職探しをしていたこともあり、そのワインバーの店主に「ここで働かせてください」と申し出た。
なんとその場で即採用が決まり、井下さんとワインとの関係が始まったのだ。

理想的なソムリエとの出会いで、ソムリエの道へ

当初は、ソムリエの資格を取るつもりはなかった井下さん。だがワインバーで働いているときに、自然体でワインを楽しく飲む理想的なソムリエに出会った。
自分もそのソムリエのように、ワインを心から愛し、懐の深いソムリエになりたいと思ったのだという。

また、幼稚園に通うふたりの娘の母親としても奮闘していた井下さん。
「自分が仕事にプライドを持っている姿を娘たちに見せたい」と、日本ソムリエ協会認定ソムリエの試験に真剣に向き合う気持ちになったのだ。 

ワインと醸造家の関係に嫉妬し、ワインの造り手を目指す

ソムリエ資格を取得した井下さんは、奈良県のワインバーで働きながら、どんどんワインの世界にのめり込んでいった。
だが次第に、お客様とワインについて話していても、「ワインとソムリエの関係」は「ワインと造り手の関係」にはかなわないのではと考えはじめた。

「『ワインは農作物なんですよ』『ワインはこんな風に造られているんです』といくら説明しても、結局は造り手からの受け売りでしかない。自分ももっとワインのことをくわしく知りたい」と井下さんは考えたという。

そんな井下さんが出会ったのが、当時、滋賀県にある「ヒトミワイナリー」の醸造家であった岩谷さんだ。
「微生物と遊ぶようにワインを造る人なんです。岩谷さんがワインについて話すのを聞いていると、ものすごい嫉妬心が生まれましたね」。

岩谷さんとワインの間の密接な関係性に、ソムリエの立場では入り込めないと感じた井下さん。ワインともっと関わりたいと考え、ワインの造り手を目指すことを決意した。

もうひとつの夢は、青少年の社会復帰をサポートする活動

醸造家の岩谷さんと出会い、ワインの造り手としての道を志した井下さん。娘たちが小学校に入学したら、醸造所に就職したいと考えていた。

当時、井下さんが就職先として目指していたのが、イタリアのトスカーナ州にある「ブリケッラ農園」。
日本人の夫とイタリア人の妻が、イタリアの地に設立したワイナリーだ。

「ブリケッラ農園」はワイナリー経営だけでなく、社会になじめない青少年を受け入れる取り組みを行なっていることも、井下さんが魅力を感じたポイントだった。

井下さんはもともと、ワイナリー経営以外に、青少年の社会復帰支援にも興味を持っていた。「ブリケッラ農園」には、ワイン造りと青少年のメンタルケアという、井下さんがまさに理想とする姿があった。

だが、ここで井下さんの人生に大きな転機が訪れる。現在の夫に出会って再婚したのだ。再婚を機に、徳島県に移住することになる。
結果としてイタリアの醸造所に転職する夢は叶わなかった。

だがポジティブな井下さんは、徳島県で自らワイナリーを設立することを決めたのだ。 

『農作業を知るため、本で見つけたワイナリーに突撃』

ワインを通じてさまざまな人に出会い、そのたびに新たな道を切り開いてきた井下さん。ぶどう栽培とワイン醸造に関しては、大阪府羽曳野市にある「飛鳥ワイナリー」で学んだ。

奈良県に住んでいた頃は、朝は飛鳥ワイナリーで畑に入らせてもらい、幼稚園の終わる昼頃に帰宅。その後買い出しに行ってワインバーで働く、を繰り返す生活だった。

「ワインは農作物」だから、ソムリエとして農業を知っておきたい

井下さんと「飛鳥ワイナリー」との出会いもまた、井下さんの決断力と行動力の賜物だ。きっかけは、ソムリエになる前に出会ったあるソムリエに、京都の「丹波ワイナリー」に連れて行ってもらったことだった。
ワイナリーを訪れ、ワインは農作物だということを改めて知って感動した。

ソムリエとしてワインと付き合っていくためには、農業を知っておく必要があると考えた。尊敬するソムリエが丹波ワイナリーに通って親交を深めていたので、自分もどこかのワイナリーとのつながりを持ちたいと考えたのだ。

丹波ワイナリーを訪れた帰りにさっそく書店に立ち寄り、「日本のワイナリー」という本を購入。近場のワイナリーを探した。この時目に留まったのが、大阪府にある飛鳥ワイナリーだった。社長自ら、さまざまな品種のワインを醸造するということが紹介されていて、遊び心のあるワイナリーだと魅力を感じた。

「飛鳥ワイナリー」に通いながら、農作業や醸造を約5年間学ぶ

行動力のかたまりのような井下さん。翌日にはさっそく、アポも取らずに飛鳥ワイナリーに単身乗り込んだ。畑を見せてくださいとの要望を、飛鳥ワイナリーは快く受け入れてくれた。
偶然にも飛鳥ワイナリーの社長は、井下さんと同じくソムリエ試験をひかえた身だった。社長とも意気投合し、飛鳥ワイナリーとの縁ができた。もちろん、ソムリエ試験には晴れてふたりとも合格したそうだ。

「めちゃくちゃ迷惑な人ですよね。急に畑を見せてくれっていわれて、よく見せてくれたなあと思います。本当に感謝しています」と、井下さんは当時を振り返る。

その後はワインバーを営みながら、5年ほど飛鳥ワイナリーで農作業を学び、醸造の時期には醸造に入らせてもらってぶどう栽培とワイン醸造に関する造詣を深めていった。

『土地に合うものを試しながら、11種類のぶどうを栽培』

再婚して、夫と子どもとともに徳島県三好市に転居した井下さんは、Natan葡萄酒醸造所を設立。まずはぶどう栽培をスタートさせた。

Natan葡萄酒醸造所が栽培するぶどうは、なんと11種類にのぼる。現在栽培しているぶどう品種は以下のとおりだ。

  • ヤマ・ソーヴィニヨン
  • ピノ・ノワール
  • リースリング・リオン
  • ゲヴェルツトラミネール
  • ソーヴィニヨン・ブラン
  • 甲斐ブラン
  • デラウエア
  • マスカット・ベーリーA
  • キャンベルアーリー
  • 巨峰
  • モンドブリエ

ゲヴェルツトラミネールとソーヴィニヨン・ブランは試験的に数本を栽培。ひとつの土地に5種類を植えている畑もあるという。2022年には新たに、甲州とシラーを植える予定だ。

飲み手の反応を見ながら、土地に馴染みやすい品種を栽培

栽培が難しいといわれるピノ・ノワールだが、思った以上に徳島の土地に合い、上手く育つことがわかった。周囲の人に成果を伝えたところ、ピノ・ノワールのワインが飲めることを非常に喜ばれたという。

「みなさんピノ・ノワールのワインが飲みたいのかなと感じたんです。土地に合うことはもちろんですが、飲み手に喜ばれる品種に重点を置いて栽培したいと思っています」。

白ワイン用の品種も増やしたいと考えて、2021年にはモンドブリエを追加した。当初はシャルドネを植えようと考えていたが、すでに栽培していたリースリング・リオンやソーヴィニヨン・ブランは土地に馴染みにくい。

そのため、同じ外来品種であるシャルドネも難しいかもしれないと考え、日本で交配された品種のモンドブリエを植えることにしたのだ。

土壌環境が異なる畑で、バラエティ豊かで多様性のあるワイナリーに

続いて、Natan葡萄酒醸造所のぶどう畑についてみていこう。Natan葡萄酒醸造所では、近隣の各農家が持っている畑を交渉して借り受けて、少しずつ拡大している段階だ。

借りられそうな畑を見つけ、さらにその土地がぶどう栽培に合う条件がそろうかどうかを判断する。土地柄、広い畑があまりないため、管理する複数の畑が点在している。

土地によって、土壌の環境は異なる。当初は、広い畑を借りられないことは不安定でマイナスだと考えていた。しかし、現在は考えを一転。

「ものすごくバラエティ豊かで、多様性のあるワイナリーになるのではないかと思うと、逆に楽しみになってきたんです」。

自分が飲みたいワインを造るため、植えたい品種を植える

井下さんのこだわりは、自分やお客様が飲みたいと思うワインを造るための品種を植えること。品種を決める際は、商品として確実に成り立つもののみを育てるべきかを迷ったそうだ。
実は、Natan葡萄酒醸造所のある土地では、メルローが育てやすいといわれている。

だがメルローよりも、自分で造ったピノ・ノワールのワインを飲んでみたい気持ちを優先した。飲みたいと思うワインを造るほうが、栽培や醸造に対してポジティブに取り組みやすくなるのではないかと考えたのだ。

畑の体制も徐々に整ってきている。井下さんがこれからを楽しみにしている品種は、キャンベルアーリーとマスカット・ベーリーA。同じ畑で栽培する2品種での赤ワインを造る予定だ。

キャンベルアーリーとマスカット・ベーリーAは、ソムリエ時代にあこがれ嫉妬した、醸造家の岩谷さんが以前、併せて醸した品種だ。岩谷さんの醸したあの味に出会うため、目指すワイン像を追いながら自分で醸造に挑戦したいと考えている。

『ぶどうに教えてもらいながら、ぶどう栽培を進める』

Natan葡萄酒醸造所のある徳島県三好市は、ぶどう栽培をする先人のいない地域だ。そのため、蔓延しやすい病気や問題への対応策の手本がない。

「前の年に起こったことを思い出し、翌年は課題をつぶしながら栽培計画を組み立てなければならないのが難しいですね」。
ぶどう栽培に適した土地であることはわかっているため、ぶどうに教えてもらいながら慎重に栽培をすすめている。

2021年からは電気柵などで、獣害対策もしっかり行う

Natan葡萄酒醸造所の畑は複数の場所に点在している。住宅街の中にある畑は獣害が少ないという。
一方で、標高200mの山中にあるぶどう畑では、ハクビシンやテン、アライグマなどの小動物にぶどうを食べられてしまった苦い経験がある。2021年は電気柵で対策し、前年の2割程度の被害で収まった。

また、2021年から植えたモンドブリエの畑には、猿がやってくる。電気柵での対応ができなければ、ぶどう畑自体を柵で囲ってしまうことも検討中している。畑の立地や特性ごとに、柔軟な対策が必要なのだ。

日本ならではの繊細なワインを造りたい

続いて、Natan葡萄酒醸造所のワインについて紹介しよう。井下さんが目指すのは、日本ならではの繊細な味わいを持つワインだ。日本人の味蕾(みらい)がキャッチできる「うま味」を、ワインの味わいで表現したいと考えている。優しい味わいで、繊細な日本人の心をワインで表現するのが目標だ。

そう考えるに至った経緯には、日本料理の板前だった父親の影響がある。「ハレの日だけに飲むワインではなく、日常に溶け込むような味わいのワインが理想です。家庭料理と一緒に味わえるワインを造りたいですね」。

日本料理には、味わいだけでなく、調理工程にも日本の心が入っていると考える井下さん。
「ワインを造るときも同じように、そのことを心にとどめながら造っていきたい」と意欲を語る。

『委託醸造で経験を積み、2021年から醸造所スタート』

Natan葡萄酒醸造所で醸造をスタートしたのは2021年。2018年~2020年までは、大阪市内にある「島之内フジマル醸造所」で委託醸造を行っていた。

島之内フジマル醸造所は、「ヒトミワイナリー」の岩谷さんが働いていたワイナリーだ。岩谷さんから醸造を受け入れてくれると聞いたため、島之内フジマル醸造所に委託醸造を依頼した。

自分で考えて工夫を続けた、3年の委託醸造期間

岩谷さんと一緒に醸造作業ができると考えていた井下さん。だが収穫したぶどうを持って行った初日が、岩谷さんの島之内フジマル醸造所での勤務最終日。1日しか一緒に醸造ができなかった。
しかしながら、島之内フジマル醸造所の社長が快く受け入れてくれたため、3年間醸造に通うことができた。

島之内フジマル醸造所での委託醸造は、醸造所の一画を借りて井下さんが自ら醸造するというもの。最初は醸造についての助言を期待していたが、現実は厳しかった。「委託醸造は学びの場ではない」と言われてしまったのだ。

だが井下さんがすごいのは、そこであきらめず「自分が甘かった」と考え直したところだ。今では「手取り足取り教えてもらわなかったからこそ、委託醸造の3年間で学ぶことが多かった」と語るほど。自分で考えて動き続けたことは、結果として大きな財産になった。

ワインの状態を考えながら、何をしてあげるべきかを考える

委託醸造をしているときから、野生の酵母で醸造を行っていた井下さん。搾汁や澱(おり)引きのタイミングなど、自分で判断しなければならないことが多く、パニックになりそうだったという。

「ワインの状態がどうなっているのか、常にイメージしていました。なにをすると美味しいワインになるのか、どのような方向性でワインを造りたいのか、を常に考えていた3年でした。島之内フジマル醸造所で学ぶことができて、ラッキーでしたね」。

島之内フジマル醸造所との縁があったからこそ、2021年に醸造所をオープンすることができたと語る井下さん。自分で醸造した3年間の経験がなければ、今の自分はないという。

『ワインは楽しく幸せな飲み物、だからこそ楽しく造りたい』

ワインが本当に好きで、美味しいワインを造るために試行錯誤するのは、まったく苦にならないという前向きな井下さん。しかし、常勤は井下さんを含め、女性2人のワイナリーであるため、苦労もある。

それは、ぶどうの搬入や、プレスしたもろみを出す作業などの力仕事だ。毎年醸造の作業中にはあざだらけになってしまい、筋トレの必要性も感じている。

「ワインは楽しく、幸せな飲み物だと思っているんです。だから、造り手が苦しみながら造りたくはないんですよね、楽しく造りたいんです」と笑顔で話す。

女性が気分に合わせて飲むワインを開発したい

Natan葡萄酒醸造所が造るのは、家族と囲む家庭料理に合わせて楽しめるワインだ。ワインは海外のものといったイメージを持ち、とっつきにくいお酒だと思っている人や、ワイン初心者でワインの選び方がわからないという人にもぜひ飲んでもらいたいという。

また、女性醸造家が造るワインとして、女性にもどんどん飲んで欲しいと語る井下さん。仕事で嫌なことがあったときに気分をリフレッシュしたり、女子力を上げたいときにも飲んで欲しいと考える。
将来的には、女性が楽しんで選べるような特徴をそなえた商品展開も検討している。

四国初のピノ・ノワールが美味しくておすすめ

徳島県は美味しい食材が豊富な土地だ。特におすすめなのは、「鱧(はも)」だという。鱧を湯引きして徳島のスダチをふると、キンキンに冷やした白ワインとの相性が抜群だ。

徳島の美味しい料理におすすめワインを伺うと、迷いながらもピノ・ノワールをすすめてくれた。
「ピノ・ノワールで造ったワインは、四国で初めてだと聞いています。自信作の徳島産ピノ・ノワールのワインを、ぜひみなさんに楽しんでもらいたいですね」。

『まとめ』

井下さんは、5人の子どもを育てるママ醸造家だ。1番下の子どもは、2021年に生まれたばかり。現在はワイナリー内にベビーカーを持ってきて、子育てしながら醸造作業にあたっている。

5人目の出産を終えて退院した翌日は、ちょうどタンクの点検日だったが、すでにワイナリーに出て作業をしていたというパワフルな女性なのだ。

井下さんがワイン造りのテーマにしているのは、なんと「魔女」だという。ワインは、微生物の力だけで醸す不思議なお酒。ワインは飲み手を酔わせ、つい本音を語らせるような媚薬でもある。そんなワインを造る自らを、魔女になぞらえているのだ。

ワイナリーのロゴやワインのエチケットにもあしらわれた素敵な魔女のイラストにも、ぜひ注目してみて欲しい。

ワイン造りというひとつの夢を実現し、美味しいワインを造るために歩みを進める井下さん。さらに、「青少年の社会復帰支援」というもうひとつの夢も、実現に近づきつつある。

数年のうちには、社会で生きづらさを感じる若者を受け入れる自立支援施設をつくることを計画している。井下さん自身も、心理学を学べる大学に通いながら資格取得を目指して勉強中だ。

Natan葡萄酒醸造所の最終目標は、社会復帰支援を併設したワイナリーだ。魅力たっぷりの魔女が抱く大きな夢が実現する日は、すぐそこまで来ている。

基本情報

名称Natan葡萄酒醸造所
所在地〒778-0002
徳島県三好市池田町マチ2185―4
アクセス【電車】
JR阿波池田駅徒歩2分
【車】
井川池田ICから車で7分
HPhttp://natan.jp/

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